生きている私
高校卒業後、私は、就職も進学することも出来ませんでした。私には、前に進む道はありませんでした。「大学に行きたい!」「仕事をしたい!」と思い続けても現実的には無理でした。私は、少しずつ絶望に飲み込まれていきました。
11歳の頃、両親が別れ、オランダから母の母国、アメリカ合衆国に連れて行かれました。高校生になった時に、自分が不法移民であることに初めて気が付きました。母は移住のための手続きをしていませんでした。それが原因で、当時、就職も進学することもできませんでした。移住問題を解決するには母の助けが必要でしたが、協力はしてもらえませんでした。不法滞在者となったまま、高校を卒業した私にはあり余る時間があったのです。
「時間を無駄にしたくない」時間を無駄にすることは、いわゆる「死」だと考え始めました。「何ができるか」と自問自答しました。チャレンジ精神旺盛な私は、「難しいことに挑戦したい」と思いました。英語を母国語とする人間にとって、日本語の習得が一番難しそうでした。それがきっかけとなり、日本語を勉強しようと決めました。勉強すればするほど、日本語の魅力に取り憑かれました。
私は、言語は文化の塊だと信じています。日本に行ったことがない私でも、言語を通して文化にふれることは可能です。その文化の何が面白いかというと、曖昧さです。「一緒に行かない?」「いいよ」この会話の空気を読まなければ、答えは、はいか、いいえか、が判りません。曖昧さが、好きと言いながらも、嫌いだと思う時もあります。例えば、何かの依頼をした時、「考えておきます」と答えられたら、本当に期待していいのでしょうか?もちろん期待はできません。こういう曖昧な断り方が好きになれません。
上下関係における日本語の使い分けも好きです。曖昧さと違って、自分の立場と相手の立場が判りやすくなります。他の言語にも、ある程度、丁寧な言い方がありますが、日本語ほど、明確ではありません。目上の人に「ありがとうございます」、対等な立場では「ありがとう」普段、目上の人や見ず知らずの人と話す時には丁寧語を使います。それは距離感があるからです。奇妙なことに、親しい人と喧嘩するときも丁寧語になることがあります。お互いに距離を置きたいからでしょう。親しくなりたいと思う人にずっと丁寧語を使われて距離が縮まらないことは残念なことですが、私にとって興味深いです。自分の母国語、英語にはそういう発想がありません。
日本は言霊の幸ふ(さきわう)国だと友人に教えてもらったことがあります。言葉の霊力が幸福をもたらす国という意味です。日本語は生きているのです。
これほど素晴らしい言語を持つ国であるにもかかわらず、記憶力のみが試される試験中心の教育のあり方が好きにはなれません。このような方法は日本人の想像力を破壊すると思います。日本の国内総生産は世界第三位です。小さな島国なのに、圧倒的な経済力を持っています。素晴らしいと思いませんか?しかしどれほど知識を集めても、それを活かす想像力がなければ、イノベーションにはなりません。言語を活かし、子どもたちの想像力を刺激して、発信する日本になれば、より素晴らしい未来が訪れると思います。
次の私のチャレンジは日本にいくことです。四年間、ずっと独学してきた私は、恋をした日本語を使って日本を体験したいです。好きな日本で自分の可能性を試してみたいです。
ブライスさん
とても、個人的な内容で心に響くものがあります。
何かを得る為には何かを失う。何かを失えば、それと同等の何かを得る。それが人生なのかなって思います。
ブライスさんの話す日本語は大学で日本語を専攻した一般的な学生さんのそれを凌駕しています。なぜか?おそらくかけた時間が桁違いに違うんだと思います。努力なさいましたね。
これからよろしくお願いします。