これからずっと

家の玄関に着いてベルを鳴らした。いくら待っても返事がなかった。その間に百合子はその家を見上げた。真っ暗な闇に包まれた家であった。もう諦めようと思った瞬間にドアの向こうに人がいる気配がした。するとドアがバンと開いた。気まずそうな顔をした女がそこに立っていた。
「なんか用?」
「こんにちは。おととい、電話をしました坂本 百合子と申します。家政婦の広告を見てご連絡をさせていただきました。待ち合わせは今日だと思いましたが、勘違いだったでしょうか。申し訳ありません。」と百合子はお辞儀して謝った。
「待って、忘れてたわ。入りなさい。」

玄関の先には深い洞窟のような廊下があった。百合子は女の背中をみると、何か不安な気持ちになった。
「すみませんが、お名前をまだお聞きしていません。」
「槍子と呼んで。」
そのまま、槍子に案内されている途中、彼女は妙に捻じれた顔の油絵を見かけた。その油絵は見れば見るほど、その顔がいきいきとしていて、まるで動いているように見えた。
「なにをぼうっとしているの?」と槍子が急に呼びかけてきた。
「すみません!」と百合子は言った。
その廊下にいる間、時が止まったようであった。

リビングにやっと着き、辺りを見渡すと何か変な気がした。リビングの真ん中には存在感ある大きな赤い皮のソファーがあった。そのソファーにふてぶてしく座っている男がいた。男はじっと新聞を読みながらタバコを吸っていた。男の前にあるテーブルの向かい側には少女が正座していた。槍子に比べると、その男は冷静で物事を深く考えているように思えた。背が高く洗練された洋服を着ており、紳士に見えた。それに反して槍子は乱暴で怒りっぽく、本音で物を言う人であった。百合子はこの夫婦の関係はどうなっているのかと不思議に思った。そして少女は従順な姿勢で静かに座っていた。

百合子と槍子は気づかれないようにそっとリビングに入った。
「あなた、新しい家政婦ですよ。」と槍子は男に言った。
新聞を食い入るように読んでいた男が顔を上げ、振り向いた。百合子は自分の心を読まれているように感じた。
「いいよ。今日から働いてもらう」と男は即座に決断した。
その会話の間も時間が止まったような感じがした。リビングに座っている少女はぜんぜん動こうともしなかった。少女はまるできれいな人形のようであった。男はまた新聞を読み始めた。槍子はにっこり笑って、百合子に喋りはじめた。

「ちゃんと聞きなさい。一度しか言わないよ。今日からこの家で働いてもらう。休みは月曜日。火曜から日曜までこの家にいてもらう。仕事中にこの家をでることは禁止。代わりはいくらでもいるんだからちゃんとやりなさい。今日から娘の世話をしなさい。」と矢継ぎ早に言った。
「娘は問題児だからお仕置きが必要と思うならば自分の判断でそうすればいい。」と付け加えた。
この女のいうことはおかしいと百合子は思った。ただ給料がかなりよく、家の問題を解決し、貯金をするためには、たいていのことは我慢しようと思って、頷いた。

「夕飯は七時。あんたがすることは冷蔵庫に貼ってあるから」と槍子は言った。
「分かりました。よろしくお願い致します」と返事した百合子。
「寝室は…」と言いかけた時、槍子の携帯電話が鳴った。
「失礼」と電話にでた。
槍子は嬉しげな顔をし、電話の相手とこっそり話した。
「はい。分かりました。それじゃ…」と電話を切って男に振り向いた。
「仕事で何かあったみたいなので、行かなきゃ」と槍子は説明した。
「何時に帰るんだ?」
「わからないけど、ちょっと遅くなるかも」とその長い廊下に向かって歩き出した槍子は早口で言った。
数分前には冷静だった男は、返事をせず、ただ槍子の背中を睨んでいた。ドアが閉まってから、男はスッと立ち上がり、少女に殴りそうな勢いで「お前のせいだ。」となじった。その様子を見て百合子はそこに戸惑って立ち止まっていた。

リビングをゆっくり見渡すと、真っ白な壁には何も掛かっていなかった。飾りもほとんどなかった。少女はまだ動かず座っているままで、真っ直ぐ前を見つめているようであった。長いストレートな黒髪で青ざめた顔色である。何を考えているのだろう。まるでそこに座っている少女は中身が空っぽで、血が通っている人間とは思えない。少女は百合子に奇妙な感覚をもたらした。

何かを蹴ったような音がリビングまで響き渡ると、男は足音を立てて家を出た。

深いため息をついて少女は百合子に声をかけた。
「家政婦さんも父のように早く逃げた方がいいです。」
百合子は少女の言いたいことを理解できなくて、「どういうことですか?」と聞いてみた。
「父はとてもかわいそうな人です。でどうしたらいいかと分からず、勘違いを起こしたりしてしまうんです。」と迷いもなくゆっくり伝えた。
百合子は訳が分からなくて少女の言うことを聞いた方がいいと思っても、自分からどうしても仕事を辞められなかった。
「逃げないとしたら」と百合子は半ば無意識に口にした。
「泣かないでください」と少女は答えた。百合子はまた奇妙な感覚に陥った。少女は一体何を言おうとしている。
「失礼しました。部屋に戻ります。」と静かに部屋へ向かっていた。

とりあえず、やらなくてはいけないことがあったので、百合子は料理の準備をしようと思った。二時間位経ってほとんど家事ができた百合子は少女の様子を見に行こうと思ったが、ドアをノックすると、返事がなかった。大丈夫かどうかを確認するため、ドアを開けようと思い、中を少し覗くと少女は眠っているようだった。まだ七時なのに、もうぐっすり眠っていた。ドアを閉めた。

百合子が洗濯をしようとすると、誰かが帰ってきた。男が家を出た時と同じような音であったので、彼だと百合子は思った。間もなく彼の声が聞こえた。
「お前のせいで、母さんが浮気している」と眠っている少女に大きい声で言った。
何かを投げたような音が百合子の耳に入ってきた。それから、悲鳴が聞こえた。何が起こっているか、気になった百合子は少女の部屋まで走った。すると少女は床に倒れたまま、男に蹴られていた。
思わず「やめてください!」と百合子はとっさに叫んだ。
「彼女を蹴らないでください!」
少女を助けようとすると、百合子は男に殴られた。一発。二発。三発。百合子も床に倒れて動けなくなってきた。必死に逃げようとしても力が出なかった。男は殴るだけ殴ったので、百合子の意識はどんどんなくなっていった。自制心を失った男はかまわず蹴りつけた。

「お父様、悪いのはわたしです。家政婦さんには関係ないことですから」と止めさせるために少女は必死で言った。
だが、手遅れだった。百合子は男に殺された。百合子はぴくりとも動かず、鼓動は止まった。それに気づくと男は錯乱状態に陥った。
「どうせ引越ししたかったんだから、ここを離れよう」とどもりながらも言った。男は気を落ち着けようとしたが、前より落ち着かない様子だった。彼女の冷たくなった体をどこかに隠すため、移動させると、百合子の目と男の目が合った。目が合った瞬間、百合子があたかも瞬きしたように見えた。驚いた男は一歩後ろに下がった。
「どこ行ってもあたしは付いていくわ。ず~っと」と死んだ百合子が呪ったかのように言った。

舞雷巣

こんにちは!米国に住んでいるブライスです。アメリカ人とオランダ人のハーフですが、あえて日本語を勉強したいと思って、勉強しています。目標はペラペラに話せるようになる事です! ほぼ毎日、勉強しています。勉強するきっかけは暇つぶしでしたが、あっという間に大好きになってしまいました。 どのように勉強しているかということについて、ちょっと書きたいと思います。 ドラマを観たり、小説を読んだり、スカイプで会話をしたりすることを通して、色々な日本語に触れています。どれが一番好きかと言えば、会話です。会話をすると、アウトプットとインプットすなわち、語学している言語での対応が必要となりますから、練習のために非常に有益だと感じています。それでも、短所もあります。学習方法の比重が会話に傾くと、砕けた表現だけが頭に染みこんでしまうことに気付いたのです。そこで、各勉強方法に割く時間をなるべく等しくすることにしました。 スカイプで会話をすることが出来るおかげで、日本語を早く吸収できるようになっていると感じています。 小説を読むことで、新しい表現をいっぱい習得でき、作家にとても感謝しています。一番好きな日本の小説家は村上春樹です。彼の書く文章はとても素敵で綺麗だと思います。「足止めを食らう」という表現が私には強く響きます。 ドラマを観て、自分の慣れている生活と違う文化、習慣、人間関係などが、少しずつ解ってきています。 これから、もっともっと日本語に触れ、色々な面白いものを使い、楽しく勉強し続けます。 よろしくお願いいたします。

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2件のフィードバック

  1. Mikado Naruhiko より:

    素晴らしい想像力とそれを表現できる日本語の能力、ポーランドに生まれながら英語で著述し偉大な英米文学者とみなされているコンラッドを思わせるような物語でした。
    倦まずに是非さまざまな作品を書いてほしいです。

  2. コレット より:

    とても洗練された文章ですね。でも、こんな深夜で読むと。。。。後編でもある?まぁ、なくてもとても想像できるスペースがあります。これは、芸術の魅力だ。

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